2014/03/10

”宗教団体こそ日本最大の地域資源”

(公財)世界宗教者平和会議の記念式典に参加させてもらった。
「政教分離」と平和への願いを実践する宗教者、という括りになるのだろう。宗教・宗派を超えた宗教者の集いの中で、もしかしたら、私は初の「無宗教者」だったかもしれない。

以前、伴走型支援士の講座()でお会いした、まつ毛の長い坊さんのお誘い()があって、実現した。
見たことの無い宗教の人がちょこちょこいる中、一声かけると集まる信徒の多さのためか、立正佼成会の人が相当数を占めていた気がする。そして、立正佼成会と対立関係のためか、創価の人はいなかったように思う。

思えばそもそも私は、お呼びでないかもしれないような集まりに、ドサクサに紛れてウェ〜イ♪、と参加していることが多い。ある意味、私は変なコミュ力が高いかもしれない。


そうして、ホームレス支援の牧師・奥田先生↑()の講演を拝聴した後、立食パーティーでムスリム女性と歓談しつつ、タダで飲み食いさせていただいてきた。

立食パーティーのご挨拶で、「この人の読経を聴いてみたい」と思うような、極低音のいい声の坊さんが、牧師の奥田先生の話を受けて、こんなことを仰っていた。

「…宗教は光を求めすぎた。我々は、もっと闇を知らなければならない。観音経にもあります、 ”無垢清浄光 慧日破諸闇” … 」


坊さんのデスな説法と、デスメタルは相関関係にあるのではないか。
ところで、デスメタルは、チベット僧の声明にも似た趣きがある。

(↑これよりもっと声明っぽい、いいのを聴いた()んだが、YouTubeには無いらしく、歌詞がついていなかったので、仕方ないからこれを貼った。)


困窮者支援のためのソーシャルキャピタル(社会的関係資源)として、寺社・教会等宗教、施設を活用しようというとき、宗教者の対人援助技術がおぼつかないという問題も、現在浮かび上がっているようで。
宗教には本来、救いのための使命があるにも関わらず、オウム事件以来、宗教者は肩身が狭く、沈黙してしまったとか、宗教アレルギーとの間の深い溝が超え難く、宗教者自身を躊躇わせる、などといったことがあるようだ。

しかし、こうした催しで、異なる宗教間同士のスムースな交流が可能だと知ることは、これもひとつの希望の光であろうし、何より、宗教人の有利な点は、間違いなくその肩書きにある。

敵を増やすより、味方を増やすべき、と思われるような傷ついた人が、人を傷つけ、そしてまた勝手に傷ついていく。黙ってサンドバッグをやっていると、相手の弱さや隙がよくわかるのだが、克服する方法を、多分、私が言っても届かない。世間的な信頼も肩書きも、何も無いからである。

「誰が」言うかは、信頼のブランドでなければならない。日頃から礼儀正しさや、辛抱強さ、聡明さ、肩書き等々を確立している人というのは、こういう場合に言葉を届けることができる。だから強いのだ。

ということを、私は夜回りの時に、牧師先生の態度を見て学んだものだ。
信仰のために礼儀正しく、辛抱強く、という態度が、暮らす地域社会の中で受け入れられ、人とのネットワークを作りやすくするのだな、と。

「宗教=キモい、コワい」
宗教者方々が、この闇の細部と和解していく、険しい道に踏み入る時代に、これからなっていくのだろうか。

0 件のコメント:

コメントを投稿