2013/09/24

体験すること、体感すること

ホメーロスの『イリアス』の第二十三巻は非業の死をとげたパトロクロスの葬礼の場からはじまる。念友を失ったアキレウスはパトロクロスの屍に無数の犠牲獣を捧げた。しかしパトロクロスは浮かばれず陰府の門前をうろつくばかりである。
かれの頼みによりアキレウスは屍体に火をかける。そして十二人のトロイア人の息子を屠って火中に投じる。それでもアキレウスはあきたらず、友の怨霊を慰めるために戦車競技会を開く。

犠牲の血潮や捕虜の叫喚より、他界に棲むものを慰めるものは、何より生けるものの競争、全力を尽くしての闘争、死に達せんばかりに緊迫した筋力の活動だったのである。

古代にあっては、生ける肉体がそのまま神に等しき力を宿し、魂は肉体とともにあって初めて魂の原義、つまり「生命力」たりうるのである。
筋骨隆々の逞しい超人がいて、凡夫らは彼を見て、「一体、どうしたらあんなに凄くなれるのだろう?」と、心を奪われ、憧れたとする。
彼の肉体と精神に磨きをかける、その道程を、味わうことができるなら、彼のようになれるに違いない、と。
その道程を味わおうという勇気と、味わいきれる資質に恵まれること、それこそが肉体を持って生まれた至福なのだ、本当の知恵の喜びなのだ、という思想が、古代ギリシャにはあったのだろうか。
死んで肉体を欠いた魂は闇間をさまよう、「苦しむものの残影」にすぎない。その惨めさは、冥界に降ったオデュッセウスが聞かされるアキレウスの嘆きの示す通りである。

「死んだことを慰めてくれるな。死んでしまった屍体の全てに君臨するより、食うや食わずの小作人のもとで、農奴として仕えていたいものだ」

実践カバラ―自己探求の旅』:ソーマ 神像か牢獄か ギリシア人の肉体観素描より

アキレウスの嘆きは、肉体から離れることばかりを夢見てしまう、気弱な思想では、なかなか考え及ばない。

ある時、私は動画で格闘技を見た後、ネットの花札や麻雀ゲームなんぞをしていて、この、アキレウスの嘆きの意味がわかった。
手で札を切って配ること、牌を積み、並べて取って捨てる、この動作。手にモノの重みを感じること。マウスの操作だけでは決して体感できない所作の数々、それを味わうことにも、麻雀や花札の醍醐味がある。

人間にとって良いのは、単に勝負の勝ち負けだけではない。道程、所作の数々を体験すること、体感することこそ、ではないか。

仮に、本当に魂が輪廻転生するものならば、超人は様々な生を体験すること、体感することを目指して、この世にまた戻ってきているのかもしれない。
老いの苦労も、病の苦労も、そこにひとつの生として身をもって生きてみなければ、決して知り得ない感覚があり、味わい、感じたからこそ獲得できる知恵がある。
ともすれば、目の前の重い障害を生きる人は、実はかつて超人だった魂を宿しているのかもしれない。

そんな風に考えると、肉体を持って今ここに在るありがたみに目覚めてくる。




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